ハゲで悩んでいる小学生のあなたへ、58歳の私が伝えたいこと

タイトルの文章
目次

はじめてハゲに気づいた日

小学4年の夏休みでした。

翌日からひとりで飛行機にのって東京に遊びに行くことが決まっていた私。

そこへ叔母がやってきておこづかいをくれるというのです。

「無駄遣いしないでよ」と渡されたお金を下を向いてポシェットにいれていた私に叔母が言ったのです。

「あんた、ハゲができてるね、鏡みてきてごらん」と。

ばあちゃんの姿見の中の私はさっきまでの私と同じ小学生でした。

プールに浮かぶおもちゃのあひる
あの瞬間まで楽しかったのに

でも決定的に違ったのは

真っ黒でまっすぐで量の多いことをよく大人に褒められていたその髪が

直径3センチくらいの円形に抜けて青白い皮膚がみえていたことでした。

学校をイメージするストローとクリップのイラスト

いろんな人がいるのが学校。

行きたくなかった。

家でずっと布団をかぶっていたかった。

まわりのオトナの反応

「痛いか?」いたくない「かゆいか?」かゆくないと答える私に母は、

「夏休みが終わるまでには治るよ」と言いました。

田舎の小学生にとって親の言葉は絶対で(他にあてになるオトナを知らない)

私は何の不安も感じずに翌日、東京に旅立ったのです。

東京の親戚の家を数件はしごしながら過ごしました。

その間寝てるとき以外はパッチン止めでハゲを隠したり、つばの広い帽子をかぶったりして

それほど不都合は感じていませんでした。

なにより自分自身それほどハゲを意識していなかったのです。

叔父・叔母たちのほとんどが母と同じような反応でした。

その程度の脱毛は叔父たちの年齢の人から見れば「子供の頃よく見た10円ハゲ」であり、

たいした病気とも映らなかったのでしょう。

「気にすんな、すぐなおる」とみんな言ってくれました。

ふてくされたネコのイラスト

ねこは毛だらけでいいよな

学校もいかなくていいしな

あの子にバレないといいな

ただひとりだけ「これは台湾ハゲだな」と言った叔父がいて、聞きなれないその響きがとても忌まわしく記憶に残ったものです。

(※”台湾ハゲ”はその当時(昭和40年代)突発性脱毛症に対して頻繁に使われていた俗称であり、決して台湾および同国籍の方を誹謗中傷するものではありません)

病院でやったこと

私が住んでいたいなかの町には皮膚科が1件しかなく、おできが出来ても漆にかぶれてもそのたった一軒の皮膚科にいくしかありませんでした。

もう病院の名前も忘れてしまいましたが、先生の見立ても親たちとさほど変わりはなかったと思います。

さすが医者だなと思ったのは「ストレスをためないことが大事です」という一言でした。

だからといって「ストレス」がなんなのか、田舎暮らしの小学4年生女子にわかるはずもなく、

緑色の塗り薬と、一週間に一回紫外線照射治療をしていきましょうということになりました。

「病院にいったからもう大丈夫」母も私も治ることに関してなんの疑いも持っていませんでした。

だって痛くもかゆくもないんです。

パッチンどめで隠せる程度の「10円ハゲ」なんですから。

ドクターのイラスト

ふりかえって思うこと

その時、他にもっと良い選択肢があったのかとこの記事を書くにあたり、考えてみたのです。

結論からいうと「なかった」と思うんです。

小学生のあなたはがっかりしたんじゃないかな。

今すぐ「治るよ」って言って欲しかったんじゃないかな。

ごめんなさい。これは本当にわたしが体験したことなのでうそは書けないのです。

ただ、これはあなたのことではありません。まだ未来はだれにもわからないのです。

同じようにハゲができても直ったひとをたくさん知っています。

それだけは忘れないでくださいね

はげた頭のイラスト

つよくなりたい 今すぐ

つよくなりたい

そう思う次の瞬間なみだがでてくる

お子さんが脱毛症になられたお父さん・お母さんへお伝えしたいこと

このブログをご覧になっている方のなかには、ご自分ではなく、お子様が脱毛症で悩まれている方もおられると思います。

ご自分の事以上に心配されていらっしゃるのではと想像します。

なんでもいい、なにかできることはないか・・・と、ネットを探し、ここを今読まれているのだと思います。

そのようなお気持ちの方に、今日のこの結論がご納得いただけるかは正直自信はありません。

ですが、あの時点での母の態度は、私を安心させるに足るものだったと今でも思います。

女の子の頭にハゲが出来たってのに親としてのんきに過ぎるだろ!とは思いません。

その後襲ってくる事実を知っていたとしても防ぐことはできませんでした。未来は変えられなかったのです。

ただひとつだけ、おとなにできる事があるとしたら「今、この時を見ろ」と教えてあげることかなと思います。

わかりもしない未来に怯えても始まらない。

あの始まりの頃をふりかえると、10円玉ほど髪が抜けた事実より「これからどうなって行ってしまうのか」という怯えの方が強かった。

楽天家過ぎるようにも見えた母の態度は、今思えばベストだったと思うんです。

これからぼちぼち、いろんな段階でとった治療法・感じたことなどを書いていこうと思います。

なにかひとつでも訪れてくださったあなたの参考になることがあればいいなと願いながら。

最後まで読んでくださったあなたに感謝します。それではまた。

この記事を書いた2か月後、私はだいじな事をおもいだしました。

なぜ最初に円形脱毛症になったか、私には思い当たる強烈な出来事があったのです。

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この記事を書いた人

1963年生まれ。グラフィックデザインの仕事をしています。わるいやつじゃないです。定年前後の働き方・ハゲてるからこそわかったこと・芸術・デザイン・ねこについて主に書いています。

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