【庵野英明も影響をうけた戦争映画】わずか10歳でハゲた理由はこれ

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10歳のわたしが見た映画。それは「沖縄決戦」です。

太平洋戦争末期の沖縄での戦いを描いている東宝8・15シリーズの第5作。陸戦の描写が中心となる。特撮はそれまでの戦記映画よりも少ない。1/1100スケールの沖縄全島セットや1/200スケールの戦艦大和のミニチュアなどが造られた。

/wiki/激動の昭和史_沖縄決戦

画像を引用するためにAmazonの商品リンクを貼りましたが、娯楽映画としての評価はわるくありません。

『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズや『シン・ゴジラ』を手掛けた庵野秀明監督

この『激動の昭和史 沖縄決戦』が自身の作品に与えた影響はおおきいと話しています。

たしかに大人が見るにはいいかもしれません。が、お子さんには見せない方がいいと思います。

映画館のなかった私の町。

夜の公民館で上映された夏の娯楽のひとつだったと記憶しています。

ドリフターズのドタバタ喜劇「ツンツン節だよ全員集合!」との2本立てだったからです。

幼すぎて自分が傷ついたことがわからない

先日テレビの報道番組内で、悲惨な映像が子供たちに与える影響についての短い特集をみました。

過激すぎるという理由で、子供たちに事実を見せないために大人が過剰に守ってやる必要があるのか?と思いながらテレビをみていました。

NHKの「やさしい日本語で書いたニュース」に詳しい記述がありましたのでリンクを貼っておきます。

今まで忘れていたのが不思議なくらいですが、その報道をみた直後「沖縄決戦」で自分が受けたショックを思い出しました。

戦争を体験していないのに航空機の音・大きな河の流れる音がこわい

沖縄決戦がただの映画なら、髪の毛がぬけるほどダメージは受けなかったかもしれません。

でも映画になったその戦争は、私の生まれるたった18年前の事です。

映画の中で、

ようやく逃げこんだガマの中、生き残った時の悲惨さを思い、お互いの頭にクワを打ち込んでいたのは家族同士でした。

ざあざあと川の音を立てて大量の血がながれました。

海からの砲弾のかけらが横ざまに飛んでくる村で、動かなくなった親のそばにうずくまっていたのは私でした。

血に砂ぼこりがこびりついた真っ黒な顔で激しく震えながら笑っていました。

直後に砲弾が炸裂し私はいなくなりました。

戦争について子供と話すときに大切なこと

戦争は人間を殺人マシンに変えることが正義だからやってはいけない。

人を殺したら種が滅ぶからやってはいけない。

体をちぎられたら血が出るからちぎってはいけない。

そんなことは誰でも知っています。でも戦争はなくならない。

連日報道されるウクライナ侵攻のニュース。その陰にかくれてミャンマーでの内戦も激化しています。

SNSには、実際に攻撃をうけながら脱出できない民間人がアップしたとされる映像もたくさんあります。

子供の目からこれらをすべて遮断するのは不可能です。

「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」の5つの提言

「年齢の低い子どもは、映像の中の出来事を自分の周りで起きている状況と捉えて不安を感じる可能性もある。

周りの大人の心がけが子どもの心の健康に寄与するので参考にしてほしい」と話しています。

  1. 子どもは大人と全く異なるイメージを抱いていることがある。子どもが話したいと思うときに耳を傾け質問できる時間を持つ
  2. 幼い子どもと年長の子どもでは理解も異なるため、年齢に応じた説明をする
  3. 動揺も含めて子どもの気持ちを否定せずに受け止める
  4. これは大人が解決すべき問題」だと伝え、今までどおり遊んだり友達に会ったりしていいと伝える
  5. 「助けたい」と思っていたらその気持ちを応援し、平和を呼びかける絵を描いたり募金活動をしたりすることで、子ども自身も解決の一端を担っていると感じることができる

行動を起こさない限り不安はなくならない

5つの提言の❺にあるように

  • 平和を呼びかける絵を描いたり
  • 募金活動をしたり

千羽鶴報道の時にも見られましたが、そういった行動をシニカルな目でみる人もいます。

わたし自身もどちらかと言えば物事を斜めから見ることが多いのが正直なところです。

確かに、今、砲弾が飛び交う中で死が目の前に迫っている人にとっては、紙で作った鳥は意味がないかもしれません。でも作った方には意味があります。

誰でもいいから人間ひとりを救うために折られるのが鶴なら、十分に役割を果たしているといえます。

戦争におびえる自分を救うためにツルを折れば良かったのなら、小学生の私は何万羽でも折ったでしょう。

どうすれば戦争を起こさないようにできるのか、具体的な方法がわからなくて、イメージは私の中でふくれあがり中から小学生の私を腐らせたのです。

その後、20歳を過ぎてから、数多くの沖縄出身の方と戦争について深くお話をする機会があり、

恐れとともに根深く持っていた「沖縄への負い目」が、

ただの幻だったと知るきっかけになりました。
じつに20年以上もイメージの罠から抜け出せなかったのは「行動をおこせなかった」その1点に尽きると思っています。

【わたし個人が持っていた沖縄への負い目とは】戦局傾いた昭和19年8月、沖縄から本土に向かった学童疎開船「対馬丸」がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け深夜の海に沈みました。乗船者1661名、うち学童800余名。生き残った学童は50余名。鹿児島に住んでいた小学生当時、図書館の本で事件を知ったのだと記憶しています。わたしはなぜか、この史実に対し「本土から助けに向かわなかった」という強烈な思念に支配されていました。

理屈で説明はできません。まるで事件当時の大人の男性がわたしの中に居て、後悔に悩んでいるかのようでした。その奇妙な感じは中学生1年の終わりまで続きました。


へえ、そんな事があったんだ。。。今日はまじめな話をしちゃったね

楽しい話ばっかりアップできればいいんだけどねえ
こういう戦争の見方もあるってことさ

こりゃもうかる気配がないな、、


今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

ではまた。ふじみのでした。

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この記事を書いた人

1963年生まれ。グラフィックデザインの仕事をしています。わるいやつじゃないです。定年前後の働き方・ハゲてるからこそわかったこと・芸術・デザイン・ねこについて主に書いています。

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