私は、59歳です。
スピリチュアルにそれほど興味がありません。
でも目に見えるものだけで私や世界が構成されているとも思いません。
今日はそんな私がなんとなく感じている「目にみえない世界とのつきあい方」の話です。
世界はこのように出来ているんだろう、というひとりのオバアの思い込みの話です。
母83歳の宗教観。家事・育児・墓参り・農作業してまた墓参り。
わたしの母は、お寺(宗教)との付き合いは盆と正月だけで結構というひとです。
でも墓参りはしょっちゅうしていました。
母は隣町から嫁に来たひとなので、生家と婚家両方の墓参りは、通りすがりにするくらいの感覚でした。
畑仕事の帰りに墓に寄る。買い物ついでに墓に寄る。
「ちょっと多めにオカズを作ったから、まあ死んでるけど○○姉さんの家にも分けに行く」という感覚です。
遠戚まで含めたら町中どこかしらの墓に血縁が眠っているわけですから、墓参りも特別なことではありませんでした。
そんな母の影響も多分にあって、上京して故郷を離れたわたしも年に2回、春と秋に同じ関東にある叔母の墓参りにいきます。
父も私が二十歳の頃に45歳の若さで亡くなっているのですが、こちらはお墓が故郷にあるので、帰省の折にしか墓参はしていません。
母の末妹である叔母は、癌のため49歳で亡くなりました。
母は九州からたびたび上京しては、治療入院で叔母不在の家で小さかった従兄弟たちの食事の面倒をみたり、故郷の食べ物を作っては叔母に食べさせたりしていました。
痛みが少ない時の叔母は、子供のころに戻ったように母に甘えて故郷の食べ物をとても喜んでいました。
ほんの少ししか食べられなかったのですが。
大事な人なら生きている間に大事にする。
そのために自分の時間を使う母はすごいと思いました。
人生の時間はそのためにあるのだなと。
苦しんだ末に亡くなった叔母の墓参りに通うのは、年老いて上京もままならない母の代わりという意味もあります。
年1~2回はあの世との交流を試みても罰は当たらない、んじゃないか?
今朝、ふと思い立って叔母の墓参りに行ってきました。
電車とバスを乗り継いで片道2時間ほどですかね。
無宗教とは言いながら、春・秋の彼岸の頃にはなんとなく気になり始め、そのうち重い腰をあげる感じです。
深い意味はないのですが、そんな季節に蝶をみると「ああ、叔母が呼びに来た」と思うのです。
なぜと言われてもわかりません。自然にそう思ってしまうのです。
亡くなって何回目かの夏に墓石に話しかけていたら蝶が来てしきりと私の周りを飛んだので、そう錯覚したのかもしれません。
都合のいい話ですが、形ばかりでも叔母の墓に参り、草むしりなどしながら10分ほど話をしていると、私が報告していることが死んだ父にも伝わる気がしています。
そこ(墓所)に叔母や父がいるとは感じません。
墓や仏壇はただの電話ボックスで、あっちはあっちでしか通じない信号のようなもので通じ合っているのではないかと感じているのです。
死んだ人とは使う言葉が違うのでメッセージは交わせませんが、「話をしよう」と気持ちにスイッチングするために墓や祭壇に向かう感じです。
伝言ダイヤルが近いかもしれません。
年に1~2回、そんな時間があってもいい。
生きている人の話ばかり聞いていると、ほとんどが生きていくために役に立つことばかりで疲れます。
どうせ他人の話など右から左なのだから、相手が生きていようが死んでいようが話すことに変わりはないじゃないですか。
私にとって、黙って聞いてくれる死んだ人たちは非常によい話相手です。
あの世とこの世の境目って、この世の人が決めてるだけ、じゃないか?
わたしはまだこの世の人、です。
でもじきにあの世のひとになるでしょう。
体が無くなる衝撃はそれは痛かったり辛かったり苦しかったりするのでしょうか、想像するしかできません。
そして私の想像は当たったためしがないので、イメージしても仕方がないと思っています。
宗教を勉強したことはありません。
でも生まれてくる前は、今のこの世にいなかったわけで、ではどこに居たかと考えると、それは自然と、父や叔母たちがいる界隈かなあと思うわけです。
もっとも「私」というものがあるとすれば、今この瞬間、ここにしかない。
じゃあ体が死んだら「私」という意識は消えてしまうのか?消えるんでしょうねえ。
昔はそれがすごく怖かったけれど、すべてはただ自分の想像の範囲内ですから。
死んでみたことはないので「消えるんでしょうねえ」と、どうしても他人事のようになってしまいます。
特に境目があるわけではないけど、「この世の人」にとっては境目があると考えないと都合の悪い事がたくさんある。
あの世とこの世の境目って、「この世の人」がそう決めてるだけなんじゃないかしら。
現世には形のあるものが存在するし、お金という価値観もあるわけで、もはや体のないあの世の人まで人数に入れてたら形あるものを管理するのが大変だから。
そんな風に感じている59歳ハゲガールなんですよ。
因果応報、と言い出したらいつの事まで気に病めばいいやら。
昔、バリ島に旅したとき日本でいうイタコにあたる「バリアン」に相談する機会がありました。
もちろん、観光の一環としてなので、あちらもそう悪い事は言いません。
でもせっかくだからと、むりやりひねり出した質問が
どうして私はハゲてるの?
バリアンは60歳くらいのおばさんでしたが、こんな答えをくれました。
あんたのせいじゃないよ。何代か前の先祖のせいだね。
ぽあーとした答えだなーと思いながら「まあ私のせいじゃなければ良かった」と思ったのを覚えています。
実は自分の中で強固に信じて来た「ハゲた理由」がありまして、それはひどく罪深いものです。
真夏に1週間以上エサも水もやらず、2羽のチャボを餓死させたんだよな
チャボたちは私の事が大好きで、私を親と思っていたのに、家族の誰かがやってくれるだろうと無責任に考えていたのです。たいした理由もなくただ怠けて小学3年の私は鳥たちを飢え死にさせました。
その恨みから、死んだチャボたちが頭の毛をむしり取っていると信じているんだ
私がそう信じている限り、イメージの中でチャボたちは私の頭髪をむしり続けるでしょう。
この荒唐無稽なイメージは一生消えないと思います。
頭の毛を一本残らずむしり取られても仕方のないことを私はしたのです。
そう考えることで、チャボたちの無念を少しでも晴らさせてやりたいとも思います。
でも実は罪の意識を軽くしたいがためにそんな風に考えているだけかもしれません
どちらにしろチャボたちは私に殺されてしまったし、私の髪は生えてきません。
一度起こった出来事はもとに戻せないのです。
因果応報とは「前世や過去の行いによって現在の状況が生じている」という仏教用語です。
現在では「過去のどんな行いも自分に戻ってくる」という意味で使われるようですが、ハゲた原因が私にないなら、ルーツをどこまでさかのぼって何を悔いたらいいのでしょう?
すべての罪を覚えていたら、罪の重さでつぶれてしまいます。
忘れる、という能力も大事です。
何かを区切りにしなければ現世を生きていけません。
そんなこともあって、人は、いえ私は「あの世・この世」と区別をしたいのかもしれません。
現世が忙しくて墓参りどころじゃない。それでもいいと思いますよ。
まったく墓参りに行かない、という人もたくさんいると思います。
それでいいんじゃないでしょうかね。毎日の暮らしの方が大事です。
今はこの世にいない、その人のことが思い浮かぶ時、自然にチャンネルはつながっているような気がします。
墓参りという行為はあくまで生きている自分のため。
形に表せば気が済む人だけがすればいい儀式だと思います。
私の暮らしには、季節の区切りとして墓参りが必要なのです。
ごはんのあと食器を洗うのは、器が空かないと次のごはんが入ってこないから。
墓参りも、生活の流れを滞りなく続けていくための、清めの儀式のひとつなのかもしれません。
今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました。ふじみのでした。
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